上杉 景勝(うえすぎ かげかつ(長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将。戦国大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。長尾上杉家(米沢上杉家)二代で、上杉宗家(重房を初代として)十七代目。
織田家との戦い
御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏が滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。
天正10年(1582年)、侵攻する織田軍は越中を完全に制圧し(魚津城の戦い)、上杉家はまさに窮地に立たされるが、6月2日、織田信長が本能寺にて自害したため(本能寺の変)織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加え、御館の乱後の混乱が長期化し、自力のみによる沈静化ができなくなったことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退し、上杉家の力は急激に凋落の一途を辿った。
豊臣政権時代
天正14年(1586年)6月、上洛し、秀吉と会見し、秀吉に養子であった畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保った。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。
天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、従三位参議に昇叙された。この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されている。天正17年(1589年)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。
文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。
会津征伐
家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。ともあれ、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。
慶長6年(1601年)、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた(『米沢市史・近世編1』より)。しかし改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石[9])藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の強大な大大名から出羽半国の一大名へと没落した。


