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2009年08月21日

上杉 景勝

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上杉 景勝(うえすぎ かげかつ(長尾 顕景(ながお あきかげ)または長尾 景勝(ながお かげかつ))は戦国時代から江戸時代にかけての武将。戦国大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。長尾上杉家(米沢上杉家)二代で、上杉宗家(重房を初代として)十七代目。

織田家との戦い
御館の乱の混乱が続く天正9年(1581年)、乱の恩賞問題により対立状態にあった北越後の新発田重家が織田信長と通じて造反した上、織田家譜代柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻される。翌年には武田氏が滅亡したため、武田家の後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。

天正10年(1582年)、侵攻する織田軍は越中を完全に制圧し(魚津城の戦い)、上杉家はまさに窮地に立たされるが、6月2日、織田信長が本能寺にて自害したため(本能寺の変)織田軍の北征は頓挫し、上杉家は九死に一生を得た。しかし、織田氏の侵攻に加え、御館の乱後の混乱が長期化し、自力のみによる沈静化ができなくなったことから、謙信が一代で拡大した上杉氏の国力は著しく衰退し、上杉家の力は急激に凋落の一途を辿った。


豊臣政権時代
天正14年(1586年)6月、上洛し、秀吉と会見し、秀吉に養子であった畠山義真(当時は上杉姓)を人質として差し出し、臣従して命脈を保った。その際に、越中と上野(真田氏の大名としての独立)の領有を放棄、換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可される。このとき、景勝は正親町天皇に拝謁して右近衛少将に任じられた。

天正15年(1587年)、秀吉の後ろ盾と協力を得た景勝は、長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち(新発田重家の乱)、再び越後統一を果たした。天正16年(1588年)には上洛し、従三位参議に昇叙された。この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されている。天正17年(1589年)には佐渡の本間氏を討伐し、佐渡を平定した。
文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた。同年豊臣家五大老の一人小早川隆景が家督を小早川秀秋に譲り隠居したため、空いた五大老に景勝が任命された。

会津征伐
家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。ともあれ、家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣する。景勝は神指城の突貫工事を命ずるが、6月になると普請を中断して家康軍の対応にあたる。7月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが挙兵(関ヶ原の戦い)し、家康が西上するとなると会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。

慶長6年(1601年)、景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。なお、文禄4年(1595年)、景勝夫人菊姫、兼続夫人お船の方は証人として伏見邸に入っていたが、両夫人は引き続き徳川の証人として、伏見邸に留め置かれた(『米沢市史・近世編1』より)。しかし改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石[9])藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の強大な大大名から出羽半国の一大名へと没落した。



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posted by シン at 21:42| Comment(55) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

直江 兼続

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戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。

父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれている)。母は上杉家重臣・直江景綱の妹(信州の豪族・泉重歳の娘説もある[1])。 父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったという。

兼続は、仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子を窺える史料は皆無。晩年に諱を重光と改めるが、通例では初名で「兼続」と呼ばれる。

同じ年、後に豊臣秀吉のもとで辣腕を振るった石田三成が生れている。


永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の長尾政景が死去すると、上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍したとされる。


秀吉の時代
1586年、兼続は、主君景勝と共に初めて上洛する。秀吉と会見の後、同年中に帰国する。その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。

国元の越後では、長い間上杉家に抵抗していた新発田重家を破り(1587年新発田城攻略、重家自刃。)、1589年には佐渡も平定し、越後国内も、安定期を迎えた。これらの攻略戦の陣頭には、常に兼続の姿があった。


関ヶ原
秀吉の死後、徳川家康は景勝の上洛を促すが、景勝は領国経営を理由にこれを拒否。兼続の知己である僧承兌の書状に対する兼続の返書(「直江状」)に激怒した家康は、会津討伐を決意。家康は上杉を討つべく会津へ向かう。

その後、家康に和を乞い、上杉家は米沢30万石に減封される。
家康に歯向かったにも関わらず、減封だけで罪が免れた影には、兼続の政治工作の努力があったという。

4分の1に減じられたにも関わらず、ほとんどの家臣は上杉家を去らずに米沢へ移った。移った当初はなんとか風雪をしのげるような仮住まいであったらしいが、兼続の総監のもと、着々と町づくりが進められていったという。

町づくりを進める一方で、兼続は近江国友から優れた鉄砲鍛冶を雇い入れ、軍備の強化も図った。

1614、1615年の大坂の陣に参戦。特に冬の陣では長男景明と共に殿軍を務め、戦功により、徳川秀忠から感状と太刀一腰および小袖を与えられた。

1619年12月19日、江戸鱗屋敷で死去。60才。
米沢徳昌寺に埋葬、後に米沢林泉寺に改葬された。




posted by シン at 21:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上杉 謙信

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上杉 謙信(うえすぎ けんしん)/上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後の武将、大名。後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた。

1530年1月21日、越後・春日山城(新潟県上越市)で生まれた。

虎千代という幼名は、この年が庚虎(かのえとら)だったことから付けられたという。

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1570年に出家して上杉謙信と改名。上杉謙信は、武田信玄との川中島決戦を終えて以降、一向一揆に苦しめられていたのであった。

上杉謙信女性説は、越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったとする説である。上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在し、女性説もその俗説のひとつである。


上杉謙信は、この合戦の勝利によって能登・加賀を支配するようになった。

そして、いよいよ関東制圧に乗り出そうとした翌1578年、突然、上杉謙信が倒れた。

春日山城で病没、享年49歳。死因は、脳溢血(のういっけつ)説が有力とされている。

その後、上杉家は上杉景勝が家督を継ぎ、上杉家の名前は江戸時代まで続くのである。



「義」を重んじ、「信」を尊んだ上杉謙信、また、酒と風雅を愛した「越後の龍」はこの世を去ったのである・・・






posted by シン at 20:52| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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